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interview021
チームワークは、会社の枠を越えて。

「エアコンのいらない家」の施工を担当している

大原工務所社長・大原彰のインタビューです。

2017年には、創業60周年を迎えるという老舗の工務店。

浮き沈みの激しい建築業界で長らく生き続けてこられた理由はどこにあったのでしょうか。

60年以上前の創業期の話、事業転換後にアトリエ事務所が設計する住宅ばかりをつくり始めた話、そして、一緒に家づくりを行っていく建て主さんとの話などなど。

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聞き手:藤山和久(「建築知識」元編集長)

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インテリゲンチャと山谷の日雇い

――

大原工務所のホームページを拝見すると、前身は設計事務所と書いてありました。

もともと工務店ではなかったのですね。

 

大原

ええ。

最初は、父が始めた建築設計事務所でした。

大原一級建築士事務所という看板を掲げていました。

――

そのときは、どのような建物を設計されていたのでしょうか。

 

大原

多かったのは、倉庫とガソリンスタンドです。

昔の日本石油、いまでいうエネオスのガソリンスタンドを設計する仕事が多かったようです。

もう、60年以上も前の話ですが。

 

――

60年前といえば、いわゆるモータリゼーションの波が押し寄せて日本中にガソリンスタンドが増えていく時代ですよね。

設計事務所としては、相当羽振りがよかったのでは?

 

大原

まあ、仕事はたくさんあったようですよ。

 

――

そんな設計事務所が、どうして工務店に事業転換されたのでしょう?

 

大原

設計事務所を開業して何年かすると、取引先の倉庫会社から「設計と一緒に工事のほうもやってもらえないか」とお願いされたらしいのです。

それで、現場で働く職人の手配までするようになりました。

当時は、設計事務所といっても現在のように社会的に認知された存在ではありません。

設計も施工もひとまとめに考えられる時代でしたから、ごく自然な成り行きだったのかもしれませんね。

 

いまは鉄骨造が多いですが、当時は木造の倉庫がたくさんありました。

その内部を改装したり、補強したりする工事が忙しく、多いときは大工を10人くらい派遣していたようです。

 

――

大工さんたちの確保は、どのように?

 

大原

詳しいことは、私にも分かりません。

いろいろな伝手を使って集めたのでしょう。

大工だけでなく土木作業員が必要なときもありましたから、人手の確保には相当苦労したと思います。

どうしても人数が足りなければ、それこそ山谷です。

山谷に出向いて日雇いを数人連れてきていました。

彼らに何度か仕事をさせて、見込みのありそうな人は頭(カシラ)にするんです。

その頭に、「今度、3~4人連れてきてよ」と呼びかけると、新しい日雇いを引っ張ってくる。

「じゃあ、明日は3人ね」

「よっしゃ、3人だな」

そんな感じです。

お世辞にも人相が良いとはいえないニッカポッカを履いた連中が、毎日日替わりで事務所に集合します。

人数が揃ったら、皆で電車に乗って現場まで。

そんなことを続けているうちに、自然と職人たちが出入りする設計事務所になり、いつしか大原工務所という看板を掲げる工務店になっていたというわけです。

 

――

私のイメージでは、60年以上前に設計事務所を開業した人というのは、相当なインテリゲンチャ。

インテリ中のインテリかと思いますが、大原さんのお父様は、それでいて山谷で日雇いをスカウトしてくるような設計者でもあったのですか?

 

大原

たしかに、父はインテリっぽい人でしたよ。

建築中の現場に背広を着て行って、下手すると革靴を履いたままコンクリートの打設工事を手伝うみたいな(笑)。

ただ、事務所には父以外にも所員が何人かいましたから、職人のスカウトはその方面に強い人がやっていたのだと思います。

職人の世界のイヤなところ

――

山谷の日雇いはともかく、倉庫の修繕をされる大工さんは、皆「社員大工」ですか?

 

大原

社員ではなく、専属というかたちでした。

いまでも当社の大工は専属というかたちが大半です。

 

――

いずれにしろ、大工さんを10人くらい抱えていたということは、景気が相当良かったわけですね。

 

大原

まあ、良いときもあったでしょうね。

ただ、そういう大工さんたちが毎日家に出入りするでしょ。

当時、私たち家族の住んでいた家は、建物の道路に面した側が事務所、奥がわが家というつくりでした。

だからいつも夕方になると、仕事が終わって事務所に戻ってきた大工さんたちが、家に上がり込んで晩酌を始めるんです。

静かに飲むなんてことは、もちろんないですね。

皆、大声で管を巻きながら飲んでいる。

まだ高校生だった私は、彼らのそういう姿を横目に見ながら、「職人ってのはイヤだな」と(笑)。

職人たちのイヤな世界をずいぶん見せられて、毎日辟易していましたよ。

――

そんな大原さんが、いまは工務店の社長をされているというのが、なんとも因縁めいた話です。

 

大原

本当はやりたくなかったんです。

大学は建築を専攻しましたが、職人たちのそういう姿を見てきたから、将来は図面を描くだけの仕事、建築設計の世界に行きたいというのが本音でした。

 

――

職人の世界はもうコリゴリだと。

「計画留年」の頓挫、思わぬ就職先

大原

大学4年生になったとき、私はわざと留年してやろうと思っていたんです。

4年間、ずーっと遊んでばかりでしたから、このまま卒業してもまともな設計者にはなれないだろう、そう思ったんですね。

だから1年留年して、しっかり建築の勉強をしてから社会に出るべきだと。

 

――

ええ。

 

大原

遊んではいましたが、4年生の段階で卒業に必要な単位だけはひととおり取れていました。

あとは、最後の卒論を提出するだけです。

ということは、この卒論さえ書かなければ、自動的に留年が決定するわけです。

途中まで書いた卒論を担当教授に見せて、「残りは来年やりますから、1年留年します」と告げたら、教授が想定外のことを言うんです。

「おまえは留年しないで大学を出ろ」。

1年留年するはずが、土壇場になって強引に卒業させられるはめになってしまいました。

 

――

卒業したくてもできなかった人はたくさんいますが、その逆というのは非常に珍しいですね。

どうして留年できなかったのですか?

 

大原

詳しいことは分かりませんが、どうも大学の方針でそういう趣旨の留年は許されなくなっていたみたいです。

――

では、大急ぎで就職活動ですか?

 

大原

ええ。

卒業するということは、仕事を探さなきゃならない。さあ困った、どうしようか……

そこでいったん、落ち着いて考えました。

将来の目標は、設計者として図面を描く仕事に就くことです。そのために必要なことは何か?

大学4年間を振り返って、自分にいまいちばん足りないものは何だろうか、いちばん勉強しなかった分野は何だろうかと考えました。

すると、自分は「構造」の勉強をまったくしてこなかった、という事実に気がついたんです。

「構造設計が分からない人間に、建築の仕事なんて出来るわけないじゃないか」。

さっそく、適当な構造設計事務所を紹介してもらい、卒業と同時にそこにもぐりこみました。

 

――

「構造」が得意だから構造設計ではなく、構造が不得意だから構造設計を選ばれた。

その発想、素晴らしいですね。

でも、構造設計が分からずに建築の設計をしている人って、いまでもたくさんいますけど……

しかも、皆さんけっこう自信満々で(笑)。

 

で、構造設計事務所の仕事はいかがでした?

 

大原

大学の授業として聞いていたときは、「イヤだな、つまらないな」と思っていたのですが、いざ仕事として始めてみると、これがじつに面白かったんです。

結局、その事務所には3年半勤めました。

 

 

(つづく)2016-7-6

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